20151024

遊ぶ心

  先日産まれたばかりだと思っていた姪がとうとう1歳の誕生日を迎えたそうだ。シンガポールに住む弟から時たまぶっきらぼうにLINEを介して姪の動画が送られてくる。去年は私の腕の中にすっぽりと収まるほど小さかった姪が、ビデオを再生するなり自力で立ち上がり、ダイナミックにふらつきながらも地面をしっかり捉え、自らの足で一歩一歩カメラに向かって笑顔で歩いてくるではないか。それを見て、”あ~、みーちゃんのこの1年間の学習はきっととてつもなく濃いものだったに違いない、、、”とひとり考えを巡らせていた。

 赤ちゃんというイキモノは実に面白い。だって彼らは特に誰からも教えられることなく、いつのまにか立ち上がり、やがてひとりで歩きだすのですから、、、。お母さんのお腹から出てきてしばらくの間は、床やベッドの上で寝転びながら自らの身体感覚を通して膨大な情報処理に追われる忙しない毎日。一見デタラメに動いているようでも、この時期の非言語学習(=自らの身体を通しての経験)、目的のない自由な遊びと試行錯誤は、やがて各身体部位の認知や発見につながり、それがまた自身の体の仕組みを理解してゆくことにつながり、、、とにかくゆっくりと時間をかけながら自らの身体を環境に適応させてゆく術を段階ごとに学んでいるわけです。

 あれ?膝を横かたむけると、お尻の近くの骨も一緒に同じ方向に傾くのね。Wait a minute!その大きな骨をそのままうまく使って床で転がせばお尻で座ることもできちゃった。あれれ、今度は膝をうまく使ったらその大きな骨を床から浮かすこともできる!Yes! これでパパやママのように2本足で立つことも遠い夢じゃない!、、、といったような具合の自問自答がきっと毎日のように起こっているのではないかと。で、ここで一つ興味深いことに、赤ちゃんはなにも「よし(気合!)、1歳になるまでに歩けるようになるぞー!」などと決して張り切って目標設定をしないこと。それは、まさに目の前にある自分の世界に没頭して遊びまくった結果故の”第一歩”なのだと。

 最近、世間ではやたらと「目標に向かってひたすら頑張ます!」みたいな風潮が評価されているのはなぜでしょうか?いや、私だって昔はどちらかと言えばそういった考えを持った人間だったのは確かですし、多少なりとのゴール設定は心の安定剤になる得ることも十分に理解しています。けどね、赤ちゃんが床の上でトライ&エラー繰り返しながら意味なくジタバタするように、ひとりの大人が楽しく遊んで踊るように生きることだって健全で健康な人間の証だと思うのです。プロセス重視だなんて、いたって目新しくもない言葉を使いたくありませんが、総じて何事も目標はあまり立てたくないなと思う今日この頃。

 でもいつものように何の柔軟性の欠片もない考えすぎな大人の脳みそは、結局「目標をもたいないことが目標です。」なぁーんて最後にはまた馬鹿げたことを言ってしまうのだけどね。














20150705

愛のiroとカタチ

   Book Review: " The Story of My Life" by Hellen Keller

 ヘレン•ケラーは超がつくほどの有名人ですので、私が敢えてここで彼女の半生を長々と説明する必要はあまりありませんが、もし一言で彼女について述べなさいと言われたら、「盲聾の身体でありながらも人生を色鮮やかに生きた女性、、、」とでも言いましょうか?しかしいろいろ調べていくと、どうやら秋田犬をはじめてアメリカ大陸に連れて来た人でもあるらしい。しかもkamikaze号って名前つけてたみたいなのですが^^そんなミニ情報、本当か!?まぁなんにせよ伝記なんかは、確か小学生の読書感想文で読んだような微かな記憶がありますが、自伝書があることを知ったのは今通っている学校の授業を通してでした。

 本そのものの構成としては、一見バランスが非常に悪いです。不均一な構成はおそらく、目の見えないヘレンが自身の膨大な記憶だけを頼りに文字にしているところからくるものだと思います。幼少期の記憶から遡っていくようなかたちで始まり、ある場面の人生体験やターニングポイントなどはとても事細かく鮮明に書かれていますが、ある場面は記憶が曖昧なのかどことなく端折られている感があります。ただそんなアンバランスや少々の読みにくさがあったとしても、今日ヘレン自身の言葉で綴られた彼女のインターナルジャーニーを原本で読めるということは大変貴重なことだと思います。

 私はこの本を読むにあたって、まず単純に「見えない、聞こえない、しゃべれない」というのはいったいどんな世界なのだろう?と頭の中で考えました。きっとそれは広い宇宙にひとり放り出されるような感じなのでは?と、、、仮に、もしも自分が同じ状況にあったとしたら、どう考えようが正常な精神状態でいられるはずはありません。

 でもそんな彼女の危機的状況救ったのが、かの有名なヘレンの家庭教師、アン•サリバン先生。この人がいなければ、ヘレンの人生は全く違ったものになっていただろうし、目の見えないヘレンの”何か学ぼう”という溢れんばかりの好奇心をを上手に汲み取り、たくさんの言葉のキャッチボールをしたサリバン先生に私は心から拍手を送りたいと思います。要するに相性の問題なのですが、本書を読んでいても彼女たちの掛け合いはとても詩的で美しく、ふたりの美的感覚が似ていることから生まれる目に見えないシナジーがなんだかとても面白いのです。

 本編中でもっとも心動いた箇所は2つ。1つはヘレンが7つの頃、この世の全てのものには実は”名前”があるという事をサリバン先生を通して知った時で、その事実が分かった瞬間、真っ暗闇にいた彼女の世界が徐々に色づき始める様子がなんとも愛おしい。そして2つ目はその事実からしばらくした後に、今度は具体的なモノやコトだけではなく、この世界には形も色もない抽象的な事柄があるということについて学ぶ場面です。

 それは例えば「愛」というものの意味について。

 それは当然モノの名前や意味を知ることよりもはるかに難しいわけです。目が正常に見えている私たちにでさえ、「愛」というものはとりとめのない漠然としたものなのだから、当然ヘレン自身の学びのフラストレーションは最高潮に達します。

 ヘレンはとにかくこの「愛」という言葉の意味を探るために、手当たり次第、触れるもの、感じるもの全てに「それは、愛?これは、愛?」と何度も先生に尋ねます。でも先生は首を横に振るばかりで一向に具体事例を示してくれない。でもある日、外で暖かい太陽の陽がをふたりを射した時、ヘレンは「もしかして、今のこれが”愛”ですか?」と先生聞きます、そしてサリバン先生はこう続けるのです。

 「愛というものは、今太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものです。雲にさわることはできないでしょう?それでも雨が振ってくることは分かるし、暑い日には花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?それは愛と同じなのよ。愛も手で触れる事ことはできません。けれど、愛が注がれるときのやさしさを感じる事は出来ます。愛があるから喜びが湧いてくるし、遊びたい気持ちが起きるのよ。ヘレン•ケラー (2004)奇跡の人 ヘレン•ケラー自伝 p.45 新潮文庫

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  私は本書を英語と日本語両方で2回読んでいます。けれども2回ともこの場所で自然と一旦本を閉じてしまう。この場面を読み終えると、たくさん満足感でなんだかこの先は読まなくてももう十分だという気持ちにいつもなってしまうからです。

  今まで30何年と生きてきて、漠然と「愛」というものについて考えたりしたことはあると言えばあるけれど、どこか希薄めいた気持ちでそれを見つめている自分もあったように思います。でも最近はなんだか周り人からの”すばらしい愛”にとてもとてもとても恵まれているような気がして(感謝!)、私は当然目が見えるけれども、ちょうど幼いヘレンが愛について誠実に深い興味を抱いた時と同じように、私も後天的にこの「愛」というものがいったいなんなのかを今一度一生懸命学ぼうとしている最中みたいです。

 


         


20150325

ぶれにぶれて

 ぞろ目のアラサーにもなると日々どんどんと考えが凝り固まっていってしまうような感覚があって、je ne sais quoi...それがこわいようでこわくないような不思議。 例えば、これはこうゆーものだ!って考えがでてきたら、そのベクトルを打ち消そうと試みる自分がいたり。とにかく最近はとても場当たり的に生きていて、昨日正解だと思っていた事実が翌日には不正解になるような、そんなスポンテイニアス(?)な毎日を送っています。

 勉強しているボディワークにしたって同じことかもしれません。私はフェルデンクライスメソッドの哲学に惚れ込んで、もちろん誇りをもってそれを学び、人に教えるつもりでいるけれど、それだけを過信することはやめようって思うようにしています。プラスなんたってここサンフランシスコベイエリア(代替医療のメッカ)に住んでいるのだから、いわゆる” ◯ ◯(insert your name here) メソッド"と名付けられているものは、わりと積極的にありとあらゆるものを経験するよう心がけているつもりです。

 もう先月の話になりますが、友人のMaricoちゃんにポラリティセラピーをしてもらいました。初めてのポラリティーセラピー体験。私の体に触れているときに、彼女が「すいほちゃん、自分の体に注意がいきすぎているみたい、体の外(スペース)との係わり合いにも目を向けるといいよ」とアドバイスを頂いたのですが、その言葉がとてもいい意味でショックだったんです。そしてスペースの話が出た時に、ダンスがとても上手な彼女らしい素敵な言葉かけだなとも思いました。Mariちゃんはたぶん何も意図していないのかもしれないけれど、私的にフェルデンクライスやり過ぎ注意勧告をもらった感じでした。自分の体への意識を高めるボディワークをやりすぎて、一番近い周りが見えなくなるという本末転倒事件。自分の事ながらとても笑えてきます。

 というわけで、日々の自分の思考様式からいったん外に出る作業というのはとても大切なような気がしています。最近は「ぶれない」とかいうキーワードに少々恥ずかしさを覚える年齢にもなってきましたし。もちろん生きてく上で何かしらの信念を持つ事は大事だと思うけれど、その信念のために躊躇なく変われる人に私はとても憧れています。






20150130

A priori.



 年が明け2月も目前となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?私は年明けとともに身の周りの景色が急に変わり、とても学校どころではありませんでした。借り家がいよいよマーケットへ出されたり、仕事環境も変わったりで、とにかく毎日忙しないです。

 さて、個人的なお知らせになりますが、いよいよ今春からFeldenkrais Teacherとしてグループレッスン:Awareness through Movementを教えることが許されます(わーい、ドンドン♪)。なので近々、emailなりfacebookなりでクラスのお知らせをしますので、どうぞ私自身の勉強のためにも参加していただけたらとても嬉しいです。また、個人レッスン:Functional Integrationのほうの練習も積極的にしてゆきたいので、どなたかボランティアしてくださる方、ご興味が有りましたらぜひメッセージ下さい。

 トレーニングのほうは3年目を目前にして(いつのまに?)、最近はほぼ確定的になっている考えがわたしの中で一つあります。それは、原因と結果(Cause and Effect)の関係性なんだけれども。とにかく人の体に触れれば触れるほど、学べば学ぶほど、ある事とある事を結ぶ線は見えるか見えないかのとても曖昧な線で繋がっているということにほぼ間違いないかなと思えてきました。

 人間の体は現代の医学で分かっている限り、おおよそ200本の骨と、600個の筋肉で構成されています。なので、例えば体のどこどこが痛いだとか、並びにその人の身体の不調、動き方の癖や姿勢なんかは、とても複雑で計り知れない要因が絡み合って表に出てきているということを日々の学習の中でいつも目の当たりにします。そして言うまでもなく、私たち一人一人の体は全く違うのだから、「何かのせいで何かが起きてる」という考えはとても安易であるし、正直原因を突き止める必要さえあるのかな?というところが私の今の着地点です。

 確かにAとB両者の間に関係性はあるのだけど、AからBに辿り着くまでの道のりはとても複雑なドミノのようで、もはや「幻想」にも近い。そしてそれは身体というレベルでなくても、例えば私達の日々の生活で身に起こるいろいろ出来事や、世の中で起きているあんなことやこんなことだって、同じ事が言えるのかもとも思い、不思議な安堵感と少々楽観的な気持ちで2015年をスタートさせたところです。

 今年もどうぞよろしく。